【第1部 安心の尺度】(17)いなくなった園児 再開いつになるのか

「みんな無事だろうか」
南相馬市原町区のよつば保育園副園長・近藤能之(46)は、東京電力福島第一原発事故で福島市に避難した園児や保護者の安否を確認するため、何よりも情報を求めていた。
平成二十三年三月十六日。近藤が最初に立ち寄った市内のあづま総合体育館の避難所は約二千五百人の避難者であふれかえっていた。共有のテレビとインターネットの回線があったが、十分に情報を集められる環境にはなかった。
インターネットが利用できる土湯温泉の旅館に移った。保育園のホームページに設けた掲示板には保護者から避難先の情報が寄せられていた。
ただ、掲示板を頼りに車で避難所を回ろうにも、ガソリン不足が続いていた。JR福島駅前で貸し出していた自転車で毎日のように園児がいる避難先に向かった。三月半ばを過ぎていたが、雪がちらつく日も少なくなかった。買い求めたお菓子や絵本などを詰めたリュックサックを背に、自転車で市内を二十キロ以上走る日もあった。
「元気だったかい」
「大丈夫。ありがとう」
子どもたちの笑顔を見るたびに疲れが取れるようだった。原発事故で保育園を休園せざるを得なくなった近藤にとって「自転車で走り続けることが自分にできる精いっぱいのことだった」。
◇ ◇
保護者から放射線の影響を尋ねられることも多かった。原発事故で拡散した放射性物質の情報が少なく、多くの親たちは原発から少しでも遠くへ避難しようとしていた。
だが、放射性物質は福島第一原発から約六十キロ離れた福島市にも降り注いでいた。事故直後の三月十二日午後五時、県が南相馬市原町区錦町で測定した空間放射線量は毎時〇・八六マイクロシーベルト。福島市成川では、十七日午後六時に毎時八・一六マイクロシーベルトと十倍近い線量が測定されていた。
「当時は放射性物質の拡散予測が公表されていなかった。事故の現状も分からず、ただ逃げるしかなかった。ましてや放射線の値が身体にどんな影響を及ぼすか正しく理解していた人なんて、ほとんどいなかったはず」。近藤は混乱の中、必死の思いで行動した当時を振り返る。
◇ ◇
三月末、ようやく園児全員の無事が確認できた。原発事故から約二週間が過ぎていた。しかし、約一カ月後の四月二十二日、政府は東京電力福島第一原発から半径二十キロ圏内を警戒区域、同二十~三十キロ圏内を緊急時避難準備区域に設定した。保育園は緊急時避難準備区域となり、引き続き休園を余儀なくされた。「いつになったら園を再開できるのか」。近藤は先の見えない不安に襲われた。
五月六日、よつば保育園を含め、緊急時避難準備区域で休園している民間の三保育園は区域外の南相馬市鹿島区の寺内公会堂に臨時の保育園を開設した。多くの市民が市外に避難していたが、仕事の都合などさまざまな事情を抱えて市内で生活を続けていた親子もいた。三十二人の子どもが通園し、全国から寄せられた支援物資などで給食を賄った。
近藤は臨時の保育園で職員らと共に奮闘を続ける中、よつば保育園の再開に向けた準備を始めようと考えていた。だが、保護者の放射線への不安を取り除くためには園内の除染が不可欠だった。(文中敬称略)