【第1部 安心の尺度】(18)いなくなった園児 除染終え元気な歓声

再開当時、園舎でお遊戯を楽しむ園児。原発事故から7カ月がたっていた
再開当時、園舎でお遊戯を楽しむ園児。原発事故から7カ月がたっていた

 「放射線の影響を受けやすいとされる乳幼児の健康を守ることが第一だ」

 平成二十三年七月。南相馬市原町区のよつば保育園副園長・近藤能之(46)は、園舎の除染を求め、市教委に掛け合った。だが、市教委は「民間の認可保育園は公共施設ではない」との一点張りだった。市が行う先行除染の対象には入れてもらえなかった。

 当時、市は学校などの公共施設で重点的な除染を計画していた。市教委幼児教育課長だった安部克己(56)=現市教委事務局次長=は「民間の保育園や幼稚園の除染は、国の指針で国の補助金を受けて事業主が実施することになっていた」と振り返る。

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 八月に入り、近藤は職員や保護者、ボランティアの協力を得て、園舎の除染作業を始めた。園庭の表土を削って入れ替えた。周囲の樹木は伐採し、木製の遊具などは撤去した。表土改善の費用として、市を通じて国から約五十万円の補助を受けた。

 真夏の炎天下、参加した保護者の中には熱中症とみられる症状を訴えて倒れる人もいた。約二カ月間にわたる徹底した除染で、毎時〇・八マイクロシーベルトほどあった園庭の空間放射線量は毎時〇・一マイクロシーベルト程度まで下がった。政府が除染実施後の目標としている毎時〇・二三マイクロシーベルト(年間一ミリシーベルト)以下になった。「これで園を再開できる」。近藤は流れ出る額の汗を拭いながら思った。

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 九月末に緊急時避難準備区域が解除された。十月十二日、除染を終えた園舎に五十六人の園児を迎え入れた。原発事故から七カ月がたっていた。子どもたちの元気な声に、近藤の胸に万感の思いが込み上げた。

 園児の数は震災前の三割にも満たなかった。休職扱いしていた職員とは連絡を取り続けていたため、再開時には十五人の保育士が確保できた。ただ、経営が成り立つか不安もあった。「生活圏での市の除染が進めば、次第に園児が増えるはず」。前向きに考えるしかなかった。

 だが、市は除染土などを運び込む仮置き場の確保に手間取り、生活圏の除染作業は思うように進んでいなかった。十月一日の南相馬市原町区錦町の空間放射線量は毎時〇・四三マイクロシーベルトほどあった。

 園舎を除染したからといって、保護者の放射線に対する不安が完全に払拭(ふっしょく)されたわけでもなかった。「ゼロじゃないと安心じゃない」「大人はいいけど、子どものことを考えると戻れない」…。受け止め方はさまざまだった。「どうすれば子育てをする親たちの不安を取り除けるのだろうか」(文中敬称略)