帰れない(下) 「誰か来てないか」 閉鎖の避難所に町民の姿

教室で寝泊まりをしていた双葉町の町民=平成24年3月、埼玉県加須市の旧騎西高

■東京新聞 さいたま支局 増田紗苗記者 29

 誰もいなくなった校舎に、冷たい北風が吹き付けていた。昨年12月27日夜、埼玉県加須市の旧騎西高。原発事故後、最も多い時で約1400人の双葉町民が身を寄せた避難所だ。この日、最後まで残っていた5人が退去した。
 故郷から約200キロ離れた埼玉へ。旧騎西高での「集団疎開」は平成23年3月30日に始まり、町の役場機能も移ってきた。プライバシーがほぼない教室で複数の家族が暮らす生活だが、学校という場は、故郷に代わるコミュニティーとしても機能していた。
 町民たちは教室ごとに班長を決め、ごみ出しや清掃を分担した。子どもは近くの小中学校に通い、大人は不安を口にしながらも、励まし合った。校庭では夏祭りも開かれた。町民らがねじり鉢巻き姿で笛や太鼓を鳴らし、やぐらを囲んで「双葉音頭」を踊った。みんな晴れやかな顔だった。そこには「双葉町」があった。
 一方、福島県内に仮設住宅が造られると、旧騎西高を離れる町民が増えていった。昨年6月には町役場機能もいわき市に移転。町は同校を「長期間生活する場所ではない」として、退去を求めた。昨年末に町民がいなくなった同校では、仮設風呂の解体工事などが進められている。
 「町民の交流拠点がなくなってしまった」。家族3人で旧騎西高から隣の羽生市に引っ越した柚原秀康さん(65)が嘆いた。柚原さんは今も2日に1度は同校に立ち寄る。「誰もいないのは分かっている。でも誰か町民が来ていないかと、つい足を運んでしまう。今の住まいの近所の人たちは優しくしてくれるが、なかなかなじめない」。加須市内のアパートに移った男性(58)も「1人でいると不安になる」と漏らす。
 約6800人の双葉町民は、今も39都道府県に散らばったままだ。埼玉県内には約900人が暮らす。町は「古里への帰還」を最終目標に掲げて町民の心の結束を図ろうとしてるが、「自分が生きているうちは戻れないだろう」と諦める声を、何人からも聞いた。
 町の面積の96%は、年間被ばく放射線量が50ミリシーベルト超の「帰還困難区域」。町と国が昨年10月に行った調査で「将来の帰還の意向」を町民に尋ねたところ、8割が「現時点で戻らない」「現時点でまだ判断がつかない」と回答した。町民の中には避難先で定職に就き、地域に根付こうと必死な人たちもいる。避難先で生まれた子もいる。
 原発事故は郷土もコミュニティーも破壊した。古里を奪い、そこに住んでいた人々の心を踏みにじり、今も苦悩の日々を強いている。これほどの犠牲を払いながら原発の再稼働を認めることは、全国の原発避難者たちの存在を忘れ去ることにほかならない。

■双葉町の避難状況
 町民6871人のうち、約6割の3888人が県内、2983人が県外に避難している(1月21日現在)。県内ではいわき市の1707人が最多。町は原発事故後の平成23年3月30日に役場機能を旧騎西高(埼玉県加須市)に移した。被災自治体で役場機能を県外に置いたのは双葉町のみ。県内に避難している町民や町議会の意向で、昨年6月17日、いわき市に移した。