第2部 営業損害(8) 病院再開を模索 経営成り立つのか

休業が続く小高赤坂病院。病棟に人影はなく、周辺は枯れ草に覆われている

 東京電力福島第一原発事故で避難指示解除準備区域となった南相馬市小高区の小高赤坂病院は、休業が続く。鉄筋コンクリート造りの病棟に人影はない。敷地内の広場やベンチを覆う枯れ草が寒風に揺れた。

 院長の渡辺瑞也(みずや)さん(72)は一日も早い再開を模索してきた。しかし、東電から支払われる営業損害の賠償金は職員の社会保険料や退職金、病棟建築費の長期債務の返済などに消える。

 市は平成28年4月の避難指示解除準備、居住制限両区域の解除を目指しているが、住民が帰還するかどうかは不透明だ。再開したからといって、かつての病院経営を維持できるのか。原発事故から4年近く放置された建物は補修も必要になる。「地域医療を担いたいのだが...。もうだめなのか」。光明は見いだせない。


 小高赤坂病院は昭和57年に開院し、精神科を中心に診療に当たってきた。当初は宮城県内の病院の分院だった。平成15年に医療法人創究会を設立して独立した。渡辺さんは開院当時から院長を務め、法人の理事長に就いた。

 小高い丘の上にある病院は敷地面積約2万平方メートル。入院患者が運動できるグラウンドなどを備えた開放的な施設だ。「日当たりが良くて広々とした病院だね」。来院者の声に誇りを感じていた。104床の病床は満床が続き、医師や看護師、薬剤師ら約80人が勤務していた。

 順調な病院経営は原発事故で暗転した。

 23年3月11日、東日本大震災が発生した。床や壁の一部にひびが入った。設備に大きな損傷はなかった。

 翌日、政府が福島第一原発から20キロ圏内に避難を指示した。テレビの報道で知った。病院は原発から北北西に18・5キロ。「落ち着いて逃げよう。すぐ戻れるよ」。当時は数日程度で避難指示が解かれ、地元に戻れると思っていた。

 第一陣として、比較的病状の軽い患者と職員の一部が福島市の病院に移った。渡辺さんらは避難の手段がなく、病院にとどまった。14日夕、警察官が運転する大型バス7台が迎えに来た。いわき市の避難所に到着した。だが患者を治療できる環境ではなかった。

 現場にいた医師らに掛け合い、南会津町の県立南会津病院で重症者を受け入れてもらった。残る患者の引き受け先は東京都の病院に決まり、バスで送り届けた。渡辺さんは川崎市の親戚宅に身を寄せた後、3月下旬、仙台市に所有していた住宅に避難した。この先、どう行動したらいいか分からなかった。


 震災と原発事故から約3カ月経過した23年6月。職員4人とともに病院に足を運んだ。誰もいない病棟を歩く。乱れたシーツ、散乱する書類...。慌ただしく避難した当時の光景が浮かび上がる。

 震災で中断した外壁の修繕作業の現場も放置されたままだ。簡単には戻って来れない現実を告げていた。待機している職員の給与支払い、借入金の返済を思うと、焦燥感にさいなまれた。

 原発事故で苦しむ他の病院と情報交換しようと5月16日、東電原発事故被災病院協議会をつくった。「失ったものを償ってもらうしかない」。そうした思いが渡辺さんを突き動かした。

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 政府と東電は原発事故に伴う営業損害賠償を28年2月分で打ち切る素案を示した。県をはじめ各団体は一斉に反発している。県内には、再起を果たした事業者がいる一方で、打ち切りの素案により絶望の淵(ふち)に立つ事業者がいる。