福島をつくる(2) 第1部 企業の覚悟 林精器製造(須賀川)

平成23年3月11日。小雪が舞った。精密金属部品加工業・林精器製造の須賀川工場(現須賀川本社事業所)がある須賀川市を震度6強の揺れが襲う。
工場で138人の社員が働いていた。「机の下に潜れ」。誰かが叫ぶ。天井が落ち、暗闇に包まれた。階段は崩れ、がれきに埋もれた。社員は、はうようにして隙間から逃げた。3階建ての工場兼事務所は約7割が壊れたが、幸い1人も大けがをしなかった。
社長の林明博(65)は22年6月、創業者で祖父の故一太郎や父の故満、兄の洋一郎(71)らの後を継いだばかりだった。「自分の代でつぶすわけにいかない」。林は再建の道を選んだ。
震災の3日後、役員で復興対策本部をつくり、再建の検討を始めた。工場敷地に新たな社屋を建てる広さはないが、県内で事業を続けたかった。林はすがる思いで取引先に声を掛けた。
腕時計の「ケース」を卸していたセイコーインスツル(本社・千葉市)から連絡が入る。「須賀川市の横山工業団地に空き工場がある」。林は仮工場にしようとすぐに借用を申し入れた。8月の事業再開を掲げた再建計画書を作り、取引企業を回った。「8月まで製品を待てない」。どの社も同じ反応だった。
再開時期を早めるには約6キロ離れた仮工場まで機械を急いで運ぶ必要があった。震災の混乱で運送業者の手はふさがっている。「自分たちが運ぼう」。幹部の考えは一致した。35人の移設専従班を編成し、手分けしてフォークリフトを運転した。3週間かけ、機械300台以上を運んだ。
機械の設備保全を担当していた精器事業部事業管理グループ管理チームマネジャーの磯貝昇(39)が仮工場に設置した機械の電源ボタンを押した。聞き慣れた静かな振動音が響く。気持ちが高ぶった。「また仕事ができる」
4月15日、研磨工程ラインが稼働した。震災から3カ月足らずの6月6日、全工程の生産が始まった。
仮工場の賃貸料は県の中小企業等復旧・復興支援事業補助金を充てた。倒壊した工場のがれき撤去や新工場建設、機械購入の費用は企業負担が4分の1のグループ補助金を使った。他社や社員の協力、補助金...。あらゆる手を使い、震災前の場所で再出発を果たした。(文中敬称略)